近江八幡の左義長行事(旧ブログ)

北里学区の左義長

 江頭町の左義長  1月11日(土)  移動型 

 昔は小正月、1月15日に行われていたが、現在は15日に近い土曜日に行われている。日曜日は駅伝と重なるのでその前の日となっている。実際の日取りは前年の秋に決められる。

 元来は子どもたちが中心になって行われていた。行事は男子のみで、予定を立て、準備をし会計管理まですべて子どもたちが行う。 近年は子どもたちの数が減り、「子供左義長」の実施が困難なため、殆どを大人がやっているとのこと。

 正月に入って左義長前になると、親たちが「左義長結い」を始める。形は基本的なもので中心に青竹を立て、三角錐状に骨組みを作る。三面に藁を巻き四段に重ねる。首の部分は割竹をあて縄で巻く。上に杉の葉を丸くした頭を付ける。頭のところにダシ(額)を飾る。その年の干支の図柄が多い。その他色紙やトランプ・サイコロなどが飾り付けられる。

 行事の単位は七町に分かれており、七基の左義長が作られたが、今年は五基であった。

 当日は朝から子どもたちが担いで町内を回る。10時頃各町の左義長が日吉神社に集結し、神社にお参りする。

 なおここで、平成8年から、江頭の町作り推進会により、子供左義長コンクールが行われている。十王・江頭の七基の左義長が勢揃いし審査、表彰が行われた。

 
それが済むと、左義長を担いで町内を練り歩く。拍子木の音に合わせ「チョーヤレ・チョーヤレ」と元気な囃し声が聞こえていた。巡行は江頭町・十王町を練り歩く。以前は何回も集落を廻っていたが、最近は午前中と午後に1回ずつになった。各町内に置かれていた左義長は夕方18時頃になると、近くの空き地や田んぼへ持って行き燃やす。

公民館前の道路脇に立っていた
北出の左義長額の部分を拡大

家の前に置かれていた五軒屋の
左義長公民館の角を曲がる東町の左義長

 

十王町の左義長 1月11日(土) 移動型

十王町も江頭町と同じ子供たちが中心の行事で、行事の内容も殆ど変わらない。

十王は仁保ともいい、朝鮮人街道沿いの町場である。行事の単位は集落を南北に分けた川端組と田堂組に分かれている。

左義長は朝早く子供らが担いで、小田神社にお参りしていたが、今は行われなくなった。

10時頃に日吉神社に集結し、お参りする。子供左義長コンクールに参加している。その後、神社を出発し、十王・江頭町内を巡行する。

夕方18時頃になると、左義長を担ぎ、二組とも堤防近くのグランドに持って行き燃やす。

担ぎ棒の竹は燃やさずに残して次の年に使う。ダシも今年のものは置いておき、昨年のダシを燃やす。子どもたちが集めた正月飾りなども一緒に燃やす。

 

小田町の左義長  1月15日 簡易型

小田神社の前の道に立てられる。 準備は前日までに行う。中心に青竹を立て、縄を四方にひき、四方は笹を立てて囲む。神社の古い注連縄や社殿に吊してあった鈴の緒などで飾る。各々の家から正月飾りなどを持って来て中に置かれる。

15日の早朝点火される。

2004年の小田町左義長
(平成16年1月14日撮影)

 

佐波江町の左義長 1月14日 固定型
1月14日、稲荷神社の前で行われる。13時に
宮総代が左義長を立て、各々の家から古いお札などを持ってくる。 16時に点火し燃やす。 

2004年1月14日撮影

 

桐原学区の左義長

堀上の左義長  1月12日(日) 移動型

 昔は1月14・15日に行われたが、現在は14日に近い日曜日に行われている。今年は12日に行われた。11日までに左義長が作られ、(以前は男の子が中心になって行う行事であったが、現在は子供育成会と左義長係が作っている)公民館の前に立てられる。前面に午年の額が取り付けられた高さ3mほどの左義長である。

 当日は午前10時に餅つきが行われ、その後子どもたちが左義長を担いで町内を廻る。左義長を公民館の前に置き、解散し、午後からもう一度左義長を担いで町内を廻る。15時頃に町内の空き地に戻る。ここで藁や青竹などを重ねたドンド焼き場が設けられ、正月飾りなどがそばに置かれる。夕方ドンド焼きと一緒の燃やされる。

 

中小森の左義長  1月12日(日) 移動型
中小森町は東小森、北出、向在家、新出の4つの組で行われている。左義長は移動型のもので、干支を描いた額を取り付けている。                        
毎年順番に宿が決められ、当日の朝、組の男たちが宿に集まり庭で左義長を作る。昼は宿で新年会が開かれる。
14時過ぎ、宿に置かれている左義長を子どもたちが担いで菅田神社へお参りする。

16時頃公民館に四基が集合する。その後、集落の空き地や田んぼに運び点火される。

 

昔の左義長行事  (近江八幡の火祭り行事より抜粋)
以前は大人たちとは別に子供宿というのがあり、各組の左義長が作られた。小学3年生から中学3年生までの男の子が公民館に集まり、18時過ぎ左義長を担ぎ中学3年生を中心に掛け声をかけながら集落を廻る。集落を出て岡山学区方面へから、江頭、丸の内をめぐり、日野川沿いを南下して古川町、池田本町などを通り、零時過ぎに元の公民館へ戻った。途中、他の町の左義長と出会い喧嘩をしたり、悪戯することもあったという。
左義長は翌朝焼く地点に運ばれ、子どもたちは子供宿へ行き、炊き込みご飯や善哉などをいただき、ゲームなどしながら点火の時間まで過ごす。

翌朝5時、子供たちは宿を出て、自分の地区に左義長を焼くことを触れてまわる。人々は正月飾りや書き初めを持って、それぞれの焼く場所に集まり、宿の主人が点火する。  

現在は子供が少なくなった為、これらの行事は行われていない。

 

東町の左義長  1月12日(日)  固定型

昔は1月14日に決まっていたが、現在は14日に近い日曜日に行われる。

午前中に固定型のものが一基、若宮神社あとの遙拝所の所に立てられる。

そのそばに正月飾りなどが置かれる。夕方その場で焼かれる。

 

八幡学区の左義長

 土田の左義長 1月12日(日) 固定型

昔は14日に町内の3つの地区で、三基の左義長を作っていた。現在は日尊神社で一基が作られている。
それまでは氏子組織の運営する行事であったが、農家が少なくなり、町内会が運営する「町内会伝承行事」と位置づけられ、日曜日に行われるようになった。
当日の朝9時から日尊神社の境内で左義長作りが行われる。昼過ぎには境内の中央に飾り付けを終えた左義長が立てられ、正月飾りなど持ち寄って根元に置いていく。 16時頃燃やされる。

左義長の基本的な構造
三本の笹竹の枝にアカガミをつけたアタマがあり、その下に杉の葉と笹で作ったカサ、割竹を縦に並べて囲を巻いたノド、藁縄をリング状にして作った3つのミミ、さらにその下には竹で三角錐状に作った土台の上に4段に藁が巻かれる。三角錐の側辺に当たる部分には別にサカワラが付けられている。

 

大林(現、出町・桜宮町・音羽町)の左義長 1月14日 簡易型

大林という地名は現在はないが、旧八幡町との合併以前は宇津呂村大字大林といい、現在の出町、桜宮町、音羽町、八幡町の地域をいった。

左義長は東出・西出・南出・音羽町の4つのグループが行っていた。出町周辺の市街化に伴って一旦分解し、一種の講となって続けていた。

東出は出町四丁目周辺の居住者10戸で構成し、毎年宿を定め左義長を行っていた。左義長は青竹に赤紙などを適宜吊したもので 台となる松明部分はない。14日午後遅く、講員所有の田んぼで燃やした。

西出は桜宮一丁目と大宮一丁目在住の14戸で構成し、当番を中心に八幡神社境内で左義長を制作する。ここは青竹を骨に三角錐の松明をつくり、ミミをつけ御幣を挿し赤紙をつり下げた笹を真ん中に立てる。18時に放火する。

南出は出町5,6丁目の12戸で構成し、西出と同じ八幡神社境内で左義長を作り放火していた。

音羽町も当番の家で簡単な左義長を作り、夕方燃やしていた。

平成20年頃から、自治会で左義長を行うことになり、松明形式をやめ、焚き火型に変わった。

八幡神社境内に四角に枠で囲み、しめ縄を張って結界を作り、中でお札や正月飾りを燃やす。14時から16時まで町内の宮役がでて火の番をする。

 

北之庄町の左義長 1月14日  固定型
14日の午後から北之庄神社で組み立てられ、境内に据え置き、新年会を兼ねた直会の後、20時頃点火される。

左義長の組み立て 松を三脚に組み尖頂へ長さ約1mの松柱を立て、三脚の裾へ松を渡して針金で止める。三脚の開きは一辺2mを測る。その上へ二つに割った青竹を三脚に巻くように等間隔に5段に渡し荒縄で縛る。これに下から順に藁の株を下にして一把ずつ並べ横木に止めていく。5段まで藁を付けた上へ再度青竹をまわし6段目の藁をつけ7段目は別に編んでおいたのを尖頂部の下を覆うように巻き付け、藁束が7段となる。

次に三角錐の稜線に沿って藁束を3から5把ずつ、今度は株を上にして7段付けていく。

一方「耳」に当たる部分は藁で三つ編みにし、長さ2mほどのものを3本作る。耳の上の「八巻」は竹を細く割って餅焼き網のように組、杉の葉をくくりつけ円盤状に仕上げる。

左義長を傾け、尖頂へ突き出た松に藁を巻いて縄で絞め、その上へ簀の子状に縄で編んだ割竹をまき、これを「のど」という。

「のど」の横へ半円状に「耳」を3つ付ける。

「のど」の上部へ杉葉の「八巻」をつけまっすぐに立つかバランスを見て修正する。五色の色紙の

つくりものや三角形の火打ちなどを藁の上に吊す。 裾に各家の正月飾りなどがおかれる。

鳥居に笹竹が渡してあり、習字などがくくりつけられる。

16時ごろの北之庄神社境内の左義長
子供が作った色紙などをドウに挿しておく 

 鳥居に渡してある笹竹に習字などを吊していく
20時に点火される

 

岡山学区の左義長

 南津田の左義長 1月12日(日) 移動型
以前は15日に行われていたが、現在は日曜日に行われる。

町内は10組に分かれていて、当番組は10年に1回まわってくる。

当番の組では12月中旬に寄り合いをし、準備の相談をする。下旬に飾り物を付ける青竹2本を切り出し、作業する小屋の前に立てておく。

1月上旬から宿の家に集まってダシの制作、飾り物の準備、台作りをする。ダシは米や黒豆・昆布など食べ物を使って創っていたが、この頃は食べ物に限らないようである。干支の図柄は変わらない。

当日、10時に左義長を担いで宿を出て、八王子神社へお参りする。担ぎ手は大人が左義長につけた棒を担ぎ、子供らは先についている縄を引いて歩く。

午後から左義長を担いで町内を巡回する。

この日、十町の各組は初寄りの日で、当番宿にて会食をしているため、各組の宿の所で左義長を止めて挨拶をする。各宿には表に高張り提灯が出されている。

17時30分、左義長を担いで八王子神社へ行く。神社の馬場で「マッセ マッセ」など掛け声をかけて練る。鳥居の横に据え、各家から持参した正月飾りやお札などを積みあげる。

大勢の人が見守るなか、18時に点火される。 

前側 馬の絵柄のダシ後ろ側
火打ちやくす玉短冊など華やかに飾り付け
されている。

 

南津田の左義長制作過程

飾り物は色紙などを使って「火打ち」(三角形のもの)・「くす玉」・「サイコロ」・短冊などを作る。台は丸太と竹で三脚を作り、稲わらを5段巻いて三角錐状に作り、「ミミ」「アタマ」をつけダシを受ける腕木、担ぎ棒を取り付ける。 作業は台作りを男性、飾りものを女性が行う。基本的には3月に行われる八幡町の左義長祭りと同じ作り方である。

くす玉の作成
火打ちの作成

 

船木町の左義長 1月12日(日) 移動型 

昔は1月14日に行われていたが、今はそれに近い日曜日に行われる。 

2004.1.12の左義長

 

金田学区の左義長        

金剛寺町の左義長 1月15日 固定型

1月15日早朝7時に若宮神社の前で点火される。 左義長松明はそれまでの日曜日に作られる。

台や胴は標準的な作り方で、赤い短冊の上部に扇子を二つつけたものをつり下げる。全体の高さは6mほどある。

当日、子供が作った色紙や習字などの笹飾りを胴に挿したり傍に立てかけて一緒に燃やす。

当日の朝6時に保管してあったサギチョウを組み立てが終わると、各家より正月飾りなどを持って来る。子供の笹飾りも持って来られる。社守が火を付ける。

鷹飼町の左義長 1月14日 焚き火型
笹竹4本を立てしめ縄を張り結界を作る。14日の14時30分火がつけられ、そこへ家から持ってきた正月飾りなどを焼く。子供らが学校から帰ると、色紙の短冊のついた笹飾を持ってきて焼く。

 

馬淵学区の左義長

 東横関の左義長 1月13日 固定型

 

1月13日以前の一番近い日曜日に左義長立て(準備)を行う。以前は12日準備していたが、住民のサラリーマン化により、日曜日になった。点火は13日と決まっている。

点火は子供が小学校から帰ってくる15時頃行われていたが、帰ってくる子供が少なくなったのでそれより早く点火が行わている。 

松明の大きさは高さ約7m、直径約4,5mもある。

松明の作り方は、まず、中心になる笹竹を立て、中心から点火できるように藁をハの字型に組んだトンネルを作る。胴の内部には春日神社の清掃の時にでた雑木や笹を周囲に積み上げていきその外側に囲むように藁で編んだ「タレ」を七巻き半巻き付けて表面を仕上げてゆく。芯竹の先は、竹を組んで三叉にしそれぞれの先に「五穀豊穣」「天下太平」「町内安全」と書いた3つ扇と町内の戸主の名前が書いた赤と黄色、赤と緑色の短冊、そして中央に二幣、左右に三幣をつける。また芯竹中央の胴の上には、ヒノマルといわれる杉の枝で作った杉玉を縄で12回巻いて固定して松明の基本部分を作る。

点火の時間に近づくと、子どもたちが各家で作った左義長を持ってきて左義長に突き刺していく。

 

武佐学区の左義長

長光寺町 1月14日 簡易型

八幡十二社神社の参道(長光寺の前)で行う。

子供のいる家では笹に短冊(願い事などを記入)や吉書等を付けたものを作り、持参して燃やす。

2003年の左義長行事
子供のいる家では笹飾りを作り軒端に飾る
2003年1月14日撮影

 

島学区の左義長

長命寺町 1月14日 固定型

三角錐に組み上げられた美しい左義長の作り物が特徴的である。

左義長の準備は前年の12月の第3土曜日から日曜日にかけて行われる。

14日に組み立てられ、15日朝に燃やされる。

2002年1月14日撮影

 

沖島町の左義長 日曜日 固定型

港の前の広場に巨大な左義長を作る。

島の小正月の行事として、また島の少年たちが大人への仲間入りを果たす元服式の日として盛大に執り行われていた。

2004年1月12日撮影

 

一泊研修旅行(旧ブログ)

H26.5.21/22「名武将の夢の跡 信州の戦国時代を旅する 」〜川中島古戦場・松代城址・上田城址小諸城址(懐古園)

25.6.5/6 「高野山と龍神温泉・熊野大社」

H24.6「歴史と文化の街・堺」
~堺市内・和歌浦・雑賀岬・養翠園・根来寺

H23.10「尾道と安芸の小京都・竹原」
~尾道・鞆の浦・竹原町並み

H22.6「律令国家の黎明・1300年のときを刻む奈良を訪ねて」
~平城京跡・秋篠寺・唐招提寺・新薬師寺・
山辺の道(石上神社・崇神天皇陵・大神神社)橿原神宮・藤原宮跡発掘現場・資料館

H21.11「桃太郎伝説の吉備路と城下町津山」湯原温泉
~津山の町並み・奥津渓谷・造山古墳と備中国分寺・最上稲荷・
吉備津神社・吉備津彦神社

H20.11「秀次公胴塚参拝 ~高野山へ」 白浜・道成寺

H20.6「岩村城址と飯田の町並み」

H19.6「郡上八幡と高山、木曽路を行く~馬籠宿」

H18.6「北国街道と越前の史跡めぐり」
~今庄宿・丸岡城・東尋坊・福井歴史資料館

H17.6「関宿と松阪城址」

H16.6「丹後地方の国宝重文の旅」
~宮津市籠神社・峰山町羽衣の里・島児神社・竹野神社・伊根船宿・夕日が温泉

H14.6「岩村城跡」昼神温泉

H13.6「越前方面」気比神社・一乗谷朝倉氏遺跡・丸岡城

H12.6「倉吉の街並みと伯耆国の歴史をたずねて」

H11.6「津山城址・湯原温泉・萩・宮島・秋芳洞」

H9.9「徳川美術館・人形館・岡崎城・家康館・大樹寺・真福寺」

H8.9「信州方面の歴史探訪」

H7.9「高野山・龍神温泉の旅」

H6.6「能登半島一周」

H4.4「信長・秀次ゆかりの地を訪ねて」
〜清洲町文化広場・岐阜・豊川他

街道・宿場探訪 第3回 土山宿と鈴鹿峠(旧ブログ)

10月2日、街道と宿場探訪の第3回として「土山宿」を訪ねた。参加者27名。出発時は好く晴れていた。

最初に訪ねた土山歴史民俗資料館は開館前にも拘わらわらず、鍵を開けて下さる。

東海道五十三次の49番目の宿場として栄えた土山宿をイメージした設えで、実物資料や復元資料、パネル解説などが展示されている。                                                           

「甲賀市土山町は琵琶湖の東南に位置し、昔は近江路から伊勢に出る要衝であった。都が平安京に遷された後、京都と伊勢神宮を結ぶ官道が整備され、仁和2年(886)には斎王群行が通ったとされる。

時代と共に土山を通る「道」も、東海道から国道1号へと移り、平成に入り新名神高速道路が開通した。

このような「道」とのかかわりが、土山の歴史と文化を形成した。」

学芸員さんの説明を聴きながら展示を見る
お茶壺道中に使われた信楽焼の茶壺

資料館を出ると黒い雲が迫っていた。

次の常明寺でボランティアガイドさんが待っていて下さり、この後ずっとお付き合いしていただく。

常明寺は 創建は古く、和銅年間(708~15)、元明天皇が文武天皇の御霊を弔う為に開かれたのが始まりとされる。 寺宝である大般若経(27帖)は長屋王が写経したもので国宝に指定されている。

森鴎外ゆかりの寺で、津和野藩の医師であった祖父の森白仙が参勤下向の途中、土山宿で倒れ、この地に葬られた。明治33年森鴎外が上京の途中土山に立ち寄り、常明寺を訪れた。

遺言により祖母、母もここに葬られたが、昭和28年、子孫によって三人の墓は津和野の永明寺に移された。昭和56年、新たに供養塔と墓碑が建てられた。

常明寺楼門森家の供養費

常明寺の横の細い路地を抜けると、土山宿を貫く本通り、旧東海道に出た。

土山宿は西の白川橋から東の田村橋まで2.5kmの長さで、僅かにカーブする道の両脇は○○跡の石柱や、旅籠屋などの屋号が書かれた家並みが続いていて、宿場の雰囲気をよく遺している。

最初に目に映ったのが、白い橋の欄干で、その面に土山宿関連の絵や歌が描かれている。橋の名を大黒屋橋という。脇本陣の大黒屋が造ったといわれる。当時はこんなのではなかったと思われるが・・・

橋の東側に、代官や役人が住んだ陣屋の古い壊れかけた建物がある。反対側には木が植えられた広場があり、高札場跡、大黒屋跡の石柱が立つ。

白川橋(大黒屋橋)高札場跡
問屋場跡 大黒屋跡

交差点をそのまま直進すると、屋号が書かれた町屋風の家が連なっている。右側の新しい建物の前に「けごみ」と書かれた不思議な言葉が目に止まる。「一服」というような意味であるらしい。建物は公民館であるが、町往く人の休憩所もかねている。暖かい土山茶を馳走になり一息つく。細かい心配りがありがたい。

公民館前の石標公民館

少し行くと、土山家本陣の前に来る。内部を見学させてもらう。入った玄関の間に関札がぎっしり掲げられている。

ここには代々の当主が火災から死守したといわれる宿帳27冊が残り、大名の生活、食文化、しきたりなどが分かる貴重な資料となっているとのことである。

最後に泊まられたのが、明治元年東京へ下向の折の明治天皇で、土山宿で天皇になられて初めての誕生日を迎えられた。お祝いに350戸全戸に酒とスルメを下賜されたという。

土山家本陣玉座

その数メートル先に旧家を改造して建てられた東海道伝馬館がある。この場所に問屋場があったそうで、伝馬館の門を入ると、問屋場が復元され、当時の様子がリアルに再現されていた。中でも大名行列の様子を京人形で忠実に表してあるのは圧巻であった。

東海道伝馬館
大名行列の人員配置を模した人形

斜め向かいにうかいというお店があってミニギャラリーを兼ねた喫茶店を営んでおられる。我々はそこで昼食を予約していた。地場産の食材を使った料理は好評であった。

うかい屋

食事が終わって外へ出ると、本格的な雨になっていた。バスに乗って田村神社まで移動。

田村神社は坂上田村麻呂の鬼退治に因んだ「厄除けの神」として有名で毎年2月18日を中心に3日間、大祭が行われ数十万人の人々で賑わう。

鬱蒼とした杉木立の参道を進むと、珍しい銅の鳥居がたっている。旧東海道は参道を通ってこの鳥居の前を右に曲がって田村川橋(海道橋)に至る。

境内を流れる田村川に田村川橋が架かっている。これは安永4年(1775)に架けられた田村永代板橋を、平成17年に復元されたものである。往時の橋は幅4.1m、長さ37.3m、30cmの低い欄干がついた当時としては画期的なものであったらしい。安藤広重の「土山宿 春の雨」はこの橋を渡る大名行列の様子が描かれている。

それ以前は、60mほど下流に川の渡り場があったが、大雨が降る度に旅人が流され死人の出る始末で、宿場役人や村人も大変であった。そのため、幕府に許可を得て、今までの東海道の道筋を変えて、神社の境内を通る新しい橋を造った。

高札に興味深いことが書かれていた。「この橋を渡るとき、幕府の用で通行する人や、武家の家族が渡るときは無料である。また近村に住む百姓たちの中、川向こうに田畑があり、毎日橋を渡って生活する人も無料である。しかし、それ以外の住人、及び一般の旅人については、一人につき三文、荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬一頭につき三文渡り賃をとる。この規則は橋がある限り永遠に続く」とある。

田村神社境内を通る旧東海道
向こうに田村川橋橋を渡ったところににある高札

高札場の先でバスに乗り込む。 一号線猪鼻の信号を左に下り、旧東海道が東西に通る猪鼻集落を少し歩く。立場(たてば)があった中屋家の当主に話を聞く。土山宿と坂下宿の中間にある猪鼻は、目前に鈴鹿峠を控えて、休息、山越えの支度等で、商いする者も多く、街道を賑わしていたと言われる。

旅籠仲屋跡の石柱
猪鼻を通る旧東海道

ますます雨脚がひどくなってきた。横殴りの雨がバスの窓に流れ落ちる。

新名神高速道路が国道一号線の遙か上をひと跨ぎに走っている。その橋脚付近に一里塚跡がある。

鈴鹿トンネルの手前でバスはUターンして下り線に入りバスから降りる。雨は横降りであったが、万人講常夜灯まで、皆が坂道を登り切った。本来なら常夜灯と茶畑、国道から出てくる自動車が見渡せ、街道の今昔を実感できるはずであった。その先は山道になるとのことで、足に自信のない人が何人か引き返した

国道一号線沿いの道を登る
滋賀県と三重県の県境の道
ガードレールの下は鈴鹿トンネルの入口

鬱蒼と茂る杉木立の道は雨風が遮られて思った程難儀ではなかった。普段でも薄暗いが、雨雲に覆われいかにも山賊が出そうな雰囲気、田村麻呂の昔話が真実味を帯びてくる。道は下り坂でそれ程歩きにくい道ではなかった。箱根と比類される難所といえど、道幅もあり、石畳もあり、さすがに官道だなと思う。

片山神社を少し降りた所でバスが待っていた。坂下宿の鈴鹿馬子唄会館まで足を伸ばす。「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る ~」 ゆったりした調子の唄が雨に濡れた体に染み込む。

帰途、道の駅「あいの土山」で休憩していた時、ガイドさんが「皆さん、蛭に噛まれていないか調べて下さい」と。見るとガイドさんの首から血が流れ出ている。噛まれても気がつかないらしい。ズボンの裾や手指などから血が出ている人が数人いた。後で痒みや腫れが出るというものでなく大丈夫らしいが、予期せぬおまけ付きとなる。「ガイドさんの出血大サービスで存分に東海道、峠越えの旅が味わえた」との声があった。

帰り道、水口辺りから、雨が降った形跡がなく、雨は土山だけだった。ガイドさんには大変お世話になった。感謝!

名武将の夢の跡 信州の戦国時代を旅する(旧ブログ)

平成26年5月21・22日 参加人数 22名 宿泊 松代ロイヤルホテル

昨夜から未明にかけて激しい雨音が聞こえていたが、集合時間には雨も止み予定より早めの6時50分に市役所を出発。 高速道路工事中の情報があり、遅れを危惧していたが順調に走る。恵那SA辺りで再び雨が降り出してきた。中央高速からの景色は雨に煙っていたが、車中でHさんがプロ顔負けのガイドをして楽しませてくれる。いつもながら氏の博識に驚く。

 予定時間通り長野ICを下り、近くのそば蔵で蕎麦と栗おこわの昼食。

 最初の訪問地は小布施の岩松院。この寺は北斎の天井画が有名で、和尚さんの話によると、北斎は晩年、小布施に来て何ヶ月も留まって絵を描いたという。絵の具は中国から輸入した辰砂・孔雀石といった高価な鉱石をふんだんに使い、その費用は今のお金で5000万とか。その絵は塗り替えられる事なく今も鮮やかな色彩に輝いている。

岩松院

 

福島正則の御廟

寺を後にしバスで小布施の町まで移動する。栗の町と言われる.小路の奥に造り酒屋や美術館など旧家がしっとり落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 次に川中島古戦場。川中島は島でなく、千曲川と犀川の間に出来た扇状地とのこと。武田軍と上杉軍の合戦は5度に亘り、一番激しい戦いが4度目の戦いであり、これも勝敗はついていないという。史跡公園に着いた頃には雨も止み日が差し始めた。ボランティアガイドさんの説明によると、山梨県の人は武田軍が勝ったといい、新潟県の人は上杉軍が勝ったという。膠着状態の陣容を武田信玄は山本勘助の進言で積極的な行動を取り、敵の背後へ兵を動かした。それを察知した謙信は夜密かに河を渡り、敵前まで行った。「鞭声粛々夜河を渡る・・・」の詩はこのことを詠ったもの。折しも深い霧のため謙信軍は優位であったが、敵に散々ダメージを与えると踵を返し、退却した。

武田側は戦場に残った者が勝ちだとして勝利の祝杯を挙げたが内実は多くの将兵を失い惨めなものだった。一方、上杉軍は負傷者が少なく、勝ったも同然大いに祝杯を挙げたという。

図入りで臨場感溢れる説明の後も、質問が途切れない。雨上がりの鮮やかな緑の古戦場を去りがたく思いながらバスに乗り込みホテルに向かった。

川中島大合戦図

 

信玄・謙信一騎打ちの像

 

2日目は松代城址見学。松代は佐久間象山の出生地。古戦場にも大きな銅像があったが、ここには象山記念館がある。時間があまりないので急ぎ足で見学し、象山神社を通り抜け、真田邸(新御殿)の白壁の長い塀の周りを巡り、門の前に来る。ここは予定に入ってないからとガイドさんに言われ、後ろ髪を引かれながら次の真田宝物館に入る。2人のガイドさんが付いておられたが言葉少なで、ここでもさっと見て過ぎる。打ち合わせの不備だったか少し残念であった。

松代城はもと海津城と称し、武田信玄が上杉謙信の進出に備え山本勘助に命じて作らせた。八幡原の合戦の時の本陣であった  

川中島平(たいら)全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りであった。
築城当時(城主・高坂弾正忠)は「海津城」と呼ばれていたが、関ヶ原の戦いの
前に当時の城主森忠政が「待城」、その後松平忠輝が「松城」と改め、真田3代藩主幸道のときに「松代城」と改めた。 

真田邸は幕末参勤交代制度の緩和にともない、妻子の帰国が許可されたことから、松代にも屋敷が必要になり9代藩主・幸教(ゆきのり)が母・お貞の方を迎える為に建てたもの。

松代から上信越道を南下し40分程で上田城址に着く。上田城は真田昌幸が天正11年(1583)千曲川の段丘上に築いた城で、1600年関ヶ原の合戦では秀忠軍の行く手を阻み、秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合わなかった。真田氏は2代40年間で、1622年松代に移り、その後小諸から仙石氏が入部した。

見学時間が少なく、隅々まで見る事は適わなかったが、深い堀や大きな石垣などから堅固な城であったことが窺える。

 

小諸城址は千曲川の急な河岸段丘に立地し、城下町より低い所にある。

「小諸なる古城のほとり」という詩が思い出され、どこから見た景色だろうかと川の方向へ足を向ける。四阿風の見晴台から眺めると、千曲川が深い谷底に湾曲して流れている。ダムと発電所が眼下に見え、詩の風情が感じられなかった。苔むした高石垣は古城の風格がある。

帰りは18号線を通り、中山道と北国街道の分岐点である追分宿をバスにゆっくり走ってもらい窓の中から見物する。昔は困難であった中山道の峠道もバスで難なく通り過ぎて、中央高速道に入り無事帰宅する。

 

千僧供古墳群 県指定史跡(旧ブログ)

供養塚古墳

 供養塚古墳は馬渕小学校の近くにあり、千僧供古墳群のうち最も西側に位置する。
昭和57年県営圃場整備に伴い発掘が行われた。その結果、周囲に幅8mの濠をめぐらし、全長50m、後円部直径37m、前方部幅22m、濠を含めると全長70mの全国でも3例目の帆立貝式古墳である。特に葬送儀礼などに使用したと思われる「造り出し」がある珍しい形式である。
また、発掘により多量の埴輪が出土した。特に従来県下では知見の少ない人物、馬、鶏、家型などの形象埴輪類が注目されている。 その中には県内では最大級の「円筒はにわ」(高さ83cm、直径32cm)がある。このことからこの古墳は5世紀後半に大和政権と強い係わりをもった有力豪族の墳墓と推測されている。
なお、この古墳は江戸時代、寛文2年(1662年)領主福富平右衛門が発掘し、石櫃を掘り出した所、その中に炭粉と共に白骨、古鏡、太刀、水晶玉などが出て来、石の内面には朱が塗られていたそうである。
昭和7年の道路工事の時に土取場とされ、採土の途中に石室が発見され、横矧板鋲留短甲、直刀などが出土し、これらは腐食が甚だしいので樹脂加工され千僧供町に保管されている。

住蓮坊古墳

古墳時代中期に属する。場所は六枚橋から南へ800mほど行くと右側の田圃の中にお椀型の墳墓が見える。昭和55年圃場整備事業に先立って発掘調査が行われた結果、直径53mの県下でも屈指の大型円墳と判明。同心円でなく、変則形状の周濠が巡らされていたが、現在は耕地化されなくなった。周濠跡からは県下最古式の須恵器が出土した。
現在古墳の上に2基の墓があるが、これは鎌倉時代、法然上人の弟子、住蓮坊と安楽坊が宮中で専修念仏を催して、後鳥羽上皇の怒りに触れ死罪となり、住蓮坊は佐々木義実に曳かれて馬渕縄手で斬首されこの地に埋葬された。江戸時代になって地元の人達が六条河原で処刑された安楽坊の霊も一緒に祀り、古墳の上に僧塚を建て追善供養したのが現在の墓である。

トギス古墳

 馬見岡神社鳥居前の道を西へ約10mほど行った所にある。丘陵部が削られ、ほぼ平坦である。石室の石材も殆ど残っていない。
円墳で周りの田圃に削られ大きさははっきりしない。古墳時代後期の首長墓とされる。

岩塚古墳

 岩塚古墳は千僧供古墳群のうち最も南に位置し、墳丘径約27.5mの円墳であることが確認されているが、明確な周濠は認められていない。横穴式石室を内部主体に持ち、現在は墳丘土が流失し、石室の石材が露出している。
石室は玄室幅約2m、現存石室長さ約11mであり、ほぼ南面に開口している。
古墳時代後期(6世紀代)に属し、北方の住蓮坊古墳、北西方の供養塚古墳に引き続いて築造されたものと見られ、在地の首長墓の系譜を引くものとして貴重な古墳である。

妙感寺古墳

 妙感寺古墳は岩倉の三差路に日蓮宗の寺・妙感寺があるが、その裏の諏訪神社の境内にある。出土品は盗掘されて築造年代は不明だが、千僧供古墳群と同様、5~6世紀に岩倉山西麓一帯を支配した首長の墓と考えられる。
この岩倉山から雪野山にかけて山腹や山麓には多数の古墳群が存在する。古代はこの馬渕地区が文化・経済の中心地だったことが伺える。

高野山と龍神温泉・熊野大社へ(旧ブログ)

平成25年6月5日・6日  参加者 24名

(1日目)近江八幡出発 = 甲南SA = 香芝IC= 高野山・光台院(昼食)…金剛峯寺拝観…奥の院=龍神温泉泊

(2日目)龍神温泉発 = 熊野本宮参拝…熊野古道の一部散歩 = 本宮古道歩きの里 ちかつゆ = 五条 柿の葉鮨夢宗庵 =香芝IC =甲南SA= 近江八幡帰着

朝8時近江八幡を出発し、12時半頃に高野山に到着。塔頭の光台院で昼食をいただく。

光台院は表通りより100mばかり奥まった所にあり、周りを杉の大木で囲まれひっそりとした所にある。

寺の開基は、白河天皇第四皇子、覚法親王といわれる。境内は本堂、多宝塔、経堂、鐘楼など重厚な建物が並んでいる。

昼食後、本堂内部や庭園を見せてもらう。本堂に安置されている本尊は快慶作の来迎阿弥陀三尊像(重文)で柔和なお顔に思わず手を合わせ頭が下がる。

 この光台院の裏に近江八幡の開祖、豊臣秀次公の胴塚がある。光台院はこの胴塚のお守りをしていて下さる。

 秀次公は青巌寺の柳の間で自刃し、首は京へ持ち帰えられ、胴は木食上人によって裏山に葬られたという。

 高野山奥の院までの参道の両側に大小無数の墓が建ち並んでいるが、殊に秀吉や徳川家の墓は桁外れに大きい。それに比べ、秀次公の墓は1mばかりの宝篋印塔が建つのみで、家来衆の墓標も見えない。あまりの哀れさに涙を誘う。

秀次公の墓(胴塚)

 

金剛峯寺拝観

 金剛峯寺の主殿は青巌寺の遺構そのままで、大玄関を入ると歴代天皇の位牌を祀る持仏堂があり、その左端の十二畳の部屋が「柳の間」即ち秀次公自刃の間である。

その解説には

「襖の絵は狩野探幽の筆で、四季の柳が描かれています。この座敷は秀次公自刃の間といいます。文禄4年7月(1595)関白秀次は雀部淡路守、山本主殿、山田三十郎、不破万作などを連れて10日夕刻高野山に着きました。秀次は木食応其上人に従って11日青巌寺で剃髪し道意禅門と名乗りました。14日池田伊代守などは秀次を誅伐するため登山し青巌寺を包囲しました。応其上人を始め一山の僧侶は秀次の命乞いをしましたが効なく、上人は囲いをとかせて秀次に自刃をすすめました。秀次の遺骸は当山の裏山に葬りました。」

ついでに秀次公切腹の前後の様子を記すと、

文禄4年7月8日 従者140名で高野山へ向かう。

10日 夕刻高野山に到着。

11日 雀部淡路守以下5名の小姓rを残し従者を京へ帰す。
剃髪し道意禅門と改名

14日 福島正則、池田伊予守を将とする3000の兵が青巌寺を包囲する。

15日 雀部淡路守以下の従者に愛用の短刀を与え別れを告げる。不破万作、山本主殿、山田三十郎の小姓たちは拝領の刀を受けて次室で「おん供、つかまつる!」という悲痛な声と共に割腹。秀次公その声を聞き終えるや切腹、介錯は雀部淡路守。次いで玄隆西堂が割腹し、最後に雀部淡路守が腹を切った。秀次公の首級は福島正則が伏見城の秀吉に首実検後、聚楽第の堀に投げ込まれたといわれる。

秀次公の和歌 三首

文禄3年3月(1594)吉野の花見、秀吉の前で詠む

治まれる 御代ぞと 呼ばふ松風に 民の草葉の なお靡くなり

 文禄4年7月14日 高野山青巌寺の一室にて

おもいきや 雲井の 秋の空ならで 竹編む窓の 月をみんとは

文禄4年7月15日 辞世の句

月花を 心のままに 見つくしぬ なにか浮き世に 思い残さむ