北里学区の左義長
江頭町の左義長 1月11日(土) 移動型
昔は小正月、1月15日に行われていたが、現在は15日に近い土曜日に行われている。日曜日は駅伝と重なるのでその前の日となっている。実際の日取りは前年の秋に決められる。
元来は子どもたちが中心になって行われていた。行事は男子のみで、予定を立て、準備をし会計管理まですべて子どもたちが行う。 近年は子どもたちの数が減り、「子供左義長」の実施が困難なため、殆どを大人がやっているとのこと。
正月に入って左義長前になると、親たちが「左義長結い」を始める。形は基本的なもので中心に青竹を立て、三角錐状に骨組みを作る。三面に藁を巻き四段に重ねる。首の部分は割竹をあて縄で巻く。上に杉の葉を丸くした頭を付ける。頭のところにダシ(額)を飾る。その年の干支の図柄が多い。その他色紙やトランプ・サイコロなどが飾り付けられる。
行事の単位は七町に分かれており、七基の左義長が作られたが、今年は五基であった。
当日は朝から子どもたちが担いで町内を回る。10時頃各町の左義長が日吉神社に集結し、神社にお参りする。
なおここで、平成8年から、江頭の町作り推進会により、子供左義長コンクールが行われている。十王・江頭の七基の左義長が勢揃いし審査、表彰が行われた。
それが済むと、左義長を担いで町内を練り歩く。拍子木の音に合わせ「チョーヤレ・チョーヤレ」と元気な囃し声が聞こえていた。巡行は江頭町・十王町を練り歩く。以前は何回も集落を廻っていたが、最近は午前中と午後に1回ずつになった。各町内に置かれていた左義長は夕方18時頃になると、近くの空き地や田んぼへ持って行き燃やす。
公民館前の道路脇に立っていた
北出の左義長額の部分を拡大
家の前に置かれていた五軒屋の
左義長公民館の角を曲がる東町の左義長
十王町の左義長 1月11日(土) 移動型
十王町も江頭町と同じ子供たちが中心の行事で、行事の内容も殆ど変わらない。
十王は仁保ともいい、朝鮮人街道沿いの町場である。行事の単位は集落を南北に分けた川端組と田堂組に分かれている。
左義長は朝早く子供らが担いで、小田神社にお参りしていたが、今は行われなくなった。
10時頃に日吉神社に集結し、お参りする。子供左義長コンクールに参加している。その後、神社を出発し、十王・江頭町内を巡行する。
夕方18時頃になると、左義長を担ぎ、二組とも堤防近くのグランドに持って行き燃やす。
担ぎ棒の竹は燃やさずに残して次の年に使う。ダシも今年のものは置いておき、昨年のダシを燃やす。子どもたちが集めた正月飾りなども一緒に燃やす。
小田町の左義長 1月15日 簡易型
小田神社の前の道に立てられる。 準備は前日までに行う。中心に青竹を立て、縄を四方にひき、四方は笹を立てて囲む。神社の古い注連縄や社殿に吊してあった鈴の緒などで飾る。各々の家から正月飾りなどを持って来て中に置かれる。
15日の早朝点火される。
2004年の小田町左義長
(平成16年1月14日撮影)
佐波江町の左義長 1月14日 固定型
1月14日、稲荷神社の前で行われる。13時に宮総代が左義長を立て、各々の家から古いお札などを持ってくる。 16時に点火し燃やす。
2004年1月14日撮影
桐原学区の左義長
堀上の左義長 1月12日(日) 移動型
昔は1月14・15日に行われたが、現在は14日に近い日曜日に行われている。今年は12日に行われた。11日までに左義長が作られ、(以前は男の子が中心になって行う行事であったが、現在は子供育成会と左義長係が作っている)公民館の前に立てられる。前面に午年の額が取り付けられた高さ3mほどの左義長である。
当日は午前10時に餅つきが行われ、その後子どもたちが左義長を担いで町内を廻る。左義長を公民館の前に置き、解散し、午後からもう一度左義長を担いで町内を廻る。15時頃に町内の空き地に戻る。ここで藁や青竹などを重ねたドンド焼き場が設けられ、正月飾りなどがそばに置かれる。夕方ドンド焼きと一緒の燃やされる。
中小森の左義長 1月12日(日) 移動型
中小森町は東小森、北出、向在家、新出の4つの組で行われている。左義長は移動型のもので、干支を描いた額を取り付けている。
毎年順番に宿が決められ、当日の朝、組の男たちが宿に集まり庭で左義長を作る。昼は宿で新年会が開かれる。
14時過ぎ、宿に置かれている左義長を子どもたちが担いで菅田神社へお参りする。
16時頃公民館に四基が集合する。その後、集落の空き地や田んぼに運び点火される。
昔の左義長行事 (近江八幡の火祭り行事より抜粋)
以前は大人たちとは別に子供宿というのがあり、各組の左義長が作られた。小学3年生から中学3年生までの男の子が公民館に集まり、18時過ぎ左義長を担ぎ中学3年生を中心に掛け声をかけながら集落を廻る。集落を出て岡山学区方面へから、江頭、丸の内をめぐり、日野川沿いを南下して古川町、池田本町などを通り、零時過ぎに元の公民館へ戻った。途中、他の町の左義長と出会い喧嘩をしたり、悪戯することもあったという。
左義長は翌朝焼く地点に運ばれ、子どもたちは子供宿へ行き、炊き込みご飯や善哉などをいただき、ゲームなどしながら点火の時間まで過ごす。
翌朝5時、子供たちは宿を出て、自分の地区に左義長を焼くことを触れてまわる。人々は正月飾りや書き初めを持って、それぞれの焼く場所に集まり、宿の主人が点火する。
現在は子供が少なくなった為、これらの行事は行われていない。
東町の左義長 1月12日(日) 固定型
昔は1月14日に決まっていたが、現在は14日に近い日曜日に行われる。
午前中に固定型のものが一基、若宮神社あとの遙拝所の所に立てられる。
そのそばに正月飾りなどが置かれる。夕方その場で焼かれる。
八幡学区の左義長
土田の左義長 1月12日(日) 固定型
昔は14日に町内の3つの地区で、三基の左義長を作っていた。現在は日尊神社で一基が作られている。
それまでは氏子組織の運営する行事であったが、農家が少なくなり、町内会が運営する「町内会伝承行事」と位置づけられ、日曜日に行われるようになった。
当日の朝9時から日尊神社の境内で左義長作りが行われる。昼過ぎには境内の中央に飾り付けを終えた左義長が立てられ、正月飾りなど持ち寄って根元に置いていく。 16時頃燃やされる。
左義長の基本的な構造
三本の笹竹の枝にアカガミをつけたアタマがあり、その下に杉の葉と笹で作ったカサ、割竹を縦に並べて囲を巻いたノド、藁縄をリング状にして作った3つのミミ、さらにその下には竹で三角錐状に作った土台の上に4段に藁が巻かれる。三角錐の側辺に当たる部分には別にサカワラが付けられている。
大林(現、出町・桜宮町・音羽町)の左義長 1月14日 簡易型
大林という地名は現在はないが、旧八幡町との合併以前は宇津呂村大字大林といい、現在の出町、桜宮町、音羽町、八幡町の地域をいった。
左義長は東出・西出・南出・音羽町の4つのグループが行っていた。出町周辺の市街化に伴って一旦分解し、一種の講となって続けていた。
東出は出町四丁目周辺の居住者10戸で構成し、毎年宿を定め左義長を行っていた。左義長は青竹に赤紙などを適宜吊したもので 台となる松明部分はない。14日午後遅く、講員所有の田んぼで燃やした。
西出は桜宮一丁目と大宮一丁目在住の14戸で構成し、当番を中心に八幡神社境内で左義長を制作する。ここは青竹を骨に三角錐の松明をつくり、ミミをつけ御幣を挿し赤紙をつり下げた笹を真ん中に立てる。18時に放火する。
南出は出町5,6丁目の12戸で構成し、西出と同じ八幡神社境内で左義長を作り放火していた。
音羽町も当番の家で簡単な左義長を作り、夕方燃やしていた。
平成20年頃から、自治会で左義長を行うことになり、松明形式をやめ、焚き火型に変わった。
八幡神社境内に四角に枠で囲み、しめ縄を張って結界を作り、中でお札や正月飾りを燃やす。14時から16時まで町内の宮役がでて火の番をする。
北之庄町の左義長 1月14日 固定型
14日の午後から北之庄神社で組み立てられ、境内に据え置き、新年会を兼ねた直会の後、20時頃点火される。
左義長の組み立て 松を三脚に組み尖頂へ長さ約1mの松柱を立て、三脚の裾へ松を渡して針金で止める。三脚の開きは一辺2mを測る。その上へ二つに割った青竹を三脚に巻くように等間隔に5段に渡し荒縄で縛る。これに下から順に藁の株を下にして一把ずつ並べ横木に止めていく。5段まで藁を付けた上へ再度青竹をまわし6段目の藁をつけ7段目は別に編んでおいたのを尖頂部の下を覆うように巻き付け、藁束が7段となる。
次に三角錐の稜線に沿って藁束を3から5把ずつ、今度は株を上にして7段付けていく。
一方「耳」に当たる部分は藁で三つ編みにし、長さ2mほどのものを3本作る。耳の上の「八巻」は竹を細く割って餅焼き網のように組、杉の葉をくくりつけ円盤状に仕上げる。
左義長を傾け、尖頂へ突き出た松に藁を巻いて縄で絞め、その上へ簀の子状に縄で編んだ割竹をまき、これを「のど」という。
「のど」の横へ半円状に「耳」を3つ付ける。
「のど」の上部へ杉葉の「八巻」をつけまっすぐに立つかバランスを見て修正する。五色の色紙の
つくりものや三角形の火打ちなどを藁の上に吊す。 裾に各家の正月飾りなどがおかれる。
鳥居に笹竹が渡してあり、習字などがくくりつけられる。
16時ごろの北之庄神社境内の左義長
子供が作った色紙などをドウに挿しておく
鳥居に渡してある笹竹に習字などを吊していく
20時に点火される
岡山学区の左義長
南津田の左義長 1月12日(日) 移動型
以前は15日に行われていたが、現在は日曜日に行われる。
町内は10組に分かれていて、当番組は10年に1回まわってくる。
当番の組では12月中旬に寄り合いをし、準備の相談をする。下旬に飾り物を付ける青竹2本を切り出し、作業する小屋の前に立てておく。
1月上旬から宿の家に集まってダシの制作、飾り物の準備、台作りをする。ダシは米や黒豆・昆布など食べ物を使って創っていたが、この頃は食べ物に限らないようである。干支の図柄は変わらない。
当日、10時に左義長を担いで宿を出て、八王子神社へお参りする。担ぎ手は大人が左義長につけた棒を担ぎ、子供らは先についている縄を引いて歩く。
午後から左義長を担いで町内を巡回する。
この日、十町の各組は初寄りの日で、当番宿にて会食をしているため、各組の宿の所で左義長を止めて挨拶をする。各宿には表に高張り提灯が出されている。
17時30分、左義長を担いで八王子神社へ行く。神社の馬場で「マッセ マッセ」など掛け声をかけて練る。鳥居の横に据え、各家から持参した正月飾りやお札などを積みあげる。
大勢の人が見守るなか、18時に点火される。
前側 馬の絵柄のダシ後ろ側
火打ちやくす玉短冊など華やかに飾り付けされている。
南津田の左義長制作過程
飾り物は色紙などを使って「火打ち」(三角形のもの)・「くす玉」・「サイコロ」・短冊などを作る。台は丸太と竹で三脚を作り、稲わらを5段巻いて三角錐状に作り、「ミミ」「アタマ」をつけダシを受ける腕木、担ぎ棒を取り付ける。 作業は台作りを男性、飾りものを女性が行う。基本的には3月に行われる八幡町の左義長祭りと同じ作り方である。
くす玉の作成
火打ちの作成
船木町の左義長 1月12日(日) 移動型
昔は1月14日に行われていたが、今はそれに近い日曜日に行われる。
2004.1.12の左義長
金田学区の左義長
金剛寺町の左義長 1月15日 固定型
1月15日早朝7時に若宮神社の前で点火される。 左義長松明はそれまでの日曜日に作られる。
台や胴は標準的な作り方で、赤い短冊の上部に扇子を二つつけたものをつり下げる。全体の高さは6mほどある。
当日、子供が作った色紙や習字などの笹飾りを胴に挿したり傍に立てかけて一緒に燃やす。
当日の朝6時に保管してあったサギチョウを組み立てが終わると、各家より正月飾りなどを持って来る。子供の笹飾りも持って来られる。社守が火を付ける。
鷹飼町の左義長 1月14日 焚き火型
笹竹4本を立てしめ縄を張り結界を作る。14日の14時30分火がつけられ、そこへ家から持ってきた正月飾りなどを焼く。子供らが学校から帰ると、色紙の短冊のついた笹飾を持ってきて焼く。
馬淵学区の左義長
東横関の左義長 1月13日 固定型
1月13日以前の一番近い日曜日に左義長立て(準備)を行う。以前は12日準備していたが、住民のサラリーマン化により、日曜日になった。点火は13日と決まっている。
点火は子供が小学校から帰ってくる15時頃行われていたが、帰ってくる子供が少なくなったのでそれより早く点火が行わている。
松明の大きさは高さ約7m、直径約4,5mもある。
松明の作り方は、まず、中心になる笹竹を立て、中心から点火できるように藁をハの字型に組んだトンネルを作る。胴の内部には春日神社の清掃の時にでた雑木や笹を周囲に積み上げていきその外側に囲むように藁で編んだ「タレ」を七巻き半巻き付けて表面を仕上げてゆく。芯竹の先は、竹を組んで三叉にしそれぞれの先に「五穀豊穣」「天下太平」「町内安全」と書いた3つ扇と町内の戸主の名前が書いた赤と黄色、赤と緑色の短冊、そして中央に二幣、左右に三幣をつける。また芯竹中央の胴の上には、ヒノマルといわれる杉の枝で作った杉玉を縄で12回巻いて固定して松明の基本部分を作る。
点火の時間に近づくと、子どもたちが各家で作った左義長を持ってきて左義長に突き刺していく。
武佐学区の左義長
長光寺町 1月14日 簡易型
八幡十二社神社の参道(長光寺の前)で行う。
子供のいる家では笹に短冊(願い事などを記入)や吉書等を付けたものを作り、持参して燃やす。
2003年の左義長行事
子供のいる家では笹飾りを作り軒端に飾る
2003年1月14日撮影
島学区の左義長
長命寺町 1月14日 固定型
三角錐に組み上げられた美しい左義長の作り物が特徴的である。
左義長の準備は前年の12月の第3土曜日から日曜日にかけて行われる。
14日に組み立てられ、15日朝に燃やされる。
2002年1月14日撮影
沖島町の左義長 日曜日 固定型
港の前の広場に巨大な左義長を作る。
島の小正月の行事として、また島の少年たちが大人への仲間入りを果たす元服式の日として盛大に執り行われていた。
2004年1月12日撮影