平成26年5月21・22日 参加人数 22名 宿泊 松代ロイヤルホテル
昨夜から未明にかけて激しい雨音が聞こえていたが、集合時間には雨も止み予定より早めの6時50分に市役所を出発。 高速道路工事中の情報があり、遅れを危惧していたが順調に走る。恵那SA辺りで再び雨が降り出してきた。中央高速からの景色は雨に煙っていたが、車中でHさんがプロ顔負けのガイドをして楽しませてくれる。いつもながら氏の博識に驚く。
予定時間通り長野ICを下り、近くのそば蔵で蕎麦と栗おこわの昼食。
最初の訪問地は小布施の岩松院。この寺は北斎の天井画が有名で、和尚さんの話によると、北斎は晩年、小布施に来て何ヶ月も留まって絵を描いたという。絵の具は中国から輸入した辰砂・孔雀石といった高価な鉱石をふんだんに使い、その費用は今のお金で5000万とか。その絵は塗り替えられる事なく今も鮮やかな色彩に輝いている。
岩松院
福島正則の御廟
寺を後にしバスで小布施の町まで移動する。栗の町と言われる.小路の奥に造り酒屋や美術館など旧家がしっとり落ち着いた雰囲気を醸し出している。
次に川中島古戦場。川中島は島でなく、千曲川と犀川の間に出来た扇状地とのこと。武田軍と上杉軍の合戦は5度に亘り、一番激しい戦いが4度目の戦いであり、これも勝敗はついていないという。史跡公園に着いた頃には雨も止み日が差し始めた。ボランティアガイドさんの説明によると、山梨県の人は武田軍が勝ったといい、新潟県の人は上杉軍が勝ったという。膠着状態の陣容を武田信玄は山本勘助の進言で積極的な行動を取り、敵の背後へ兵を動かした。それを察知した謙信は夜密かに河を渡り、敵前まで行った。「鞭声粛々夜河を渡る・・・」の詩はこのことを詠ったもの。折しも深い霧のため謙信軍は優位であったが、敵に散々ダメージを与えると踵を返し、退却した。
武田側は戦場に残った者が勝ちだとして勝利の祝杯を挙げたが内実は多くの将兵を失い惨めなものだった。一方、上杉軍は負傷者が少なく、勝ったも同然大いに祝杯を挙げたという。
図入りで臨場感溢れる説明の後も、質問が途切れない。雨上がりの鮮やかな緑の古戦場を去りがたく思いながらバスに乗り込みホテルに向かった。
川中島大合戦図
信玄・謙信一騎打ちの像
2日目は松代城址見学。松代は佐久間象山の出生地。古戦場にも大きな銅像があったが、ここには象山記念館がある。時間があまりないので急ぎ足で見学し、象山神社を通り抜け、真田邸(新御殿)の白壁の長い塀の周りを巡り、門の前に来る。ここは予定に入ってないからとガイドさんに言われ、後ろ髪を引かれながら次の真田宝物館に入る。2人のガイドさんが付いておられたが言葉少なで、ここでもさっと見て過ぎる。打ち合わせの不備だったか少し残念であった。
松代城はもと海津城と称し、武田信玄が上杉謙信の進出に備え山本勘助に命じて作らせた。八幡原の合戦の時の本陣であった
川中島平(たいら)全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りであった。
築城当時(城主・高坂弾正忠)は「海津城」と呼ばれていたが、関ヶ原の戦いの前に当時の城主森忠政が「待城」、その後松平忠輝が「松城」と改め、真田3代藩主幸道のときに「松代城」と改めた。
真田邸は幕末参勤交代制度の緩和にともない、妻子の帰国が許可されたことから、松代にも屋敷が必要になり9代藩主・幸教(ゆきのり)が母・お貞の方を迎える為に建てたもの。
松代から上信越道を南下し40分程で上田城址に着く。上田城は真田昌幸が天正11年(1583)千曲川の段丘上に築いた城で、1600年関ヶ原の合戦では秀忠軍の行く手を阻み、秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合わなかった。真田氏は2代40年間で、1622年松代に移り、その後小諸から仙石氏が入部した。
見学時間が少なく、隅々まで見る事は適わなかったが、深い堀や大きな石垣などから堅固な城であったことが窺える。
小諸城址は千曲川の急な河岸段丘に立地し、城下町より低い所にある。
「小諸なる古城のほとり」という詩が思い出され、どこから見た景色だろうかと川の方向へ足を向ける。四阿風の見晴台から眺めると、千曲川が深い谷底に湾曲して流れている。ダムと発電所が眼下に見え、詩の風情が感じられなかった。苔むした高石垣は古城の風格がある。
帰りは18号線を通り、中山道と北国街道の分岐点である追分宿をバスにゆっくり走ってもらい窓の中から見物する。昔は困難であった中山道の峠道もバスで難なく通り過ぎて、中央高速道に入り無事帰宅する。