街道・宿場探訪 第3回 土山宿と鈴鹿峠(旧ブログ)

10月2日、街道と宿場探訪の第3回として「土山宿」を訪ねた。参加者27名。出発時は好く晴れていた。

最初に訪ねた土山歴史民俗資料館は開館前にも拘わらわらず、鍵を開けて下さる。

東海道五十三次の49番目の宿場として栄えた土山宿をイメージした設えで、実物資料や復元資料、パネル解説などが展示されている。                                                           

「甲賀市土山町は琵琶湖の東南に位置し、昔は近江路から伊勢に出る要衝であった。都が平安京に遷された後、京都と伊勢神宮を結ぶ官道が整備され、仁和2年(886)には斎王群行が通ったとされる。

時代と共に土山を通る「道」も、東海道から国道1号へと移り、平成に入り新名神高速道路が開通した。

このような「道」とのかかわりが、土山の歴史と文化を形成した。」

学芸員さんの説明を聴きながら展示を見る
お茶壺道中に使われた信楽焼の茶壺

資料館を出ると黒い雲が迫っていた。

次の常明寺でボランティアガイドさんが待っていて下さり、この後ずっとお付き合いしていただく。

常明寺は 創建は古く、和銅年間(708~15)、元明天皇が文武天皇の御霊を弔う為に開かれたのが始まりとされる。 寺宝である大般若経(27帖)は長屋王が写経したもので国宝に指定されている。

森鴎外ゆかりの寺で、津和野藩の医師であった祖父の森白仙が参勤下向の途中、土山宿で倒れ、この地に葬られた。明治33年森鴎外が上京の途中土山に立ち寄り、常明寺を訪れた。

遺言により祖母、母もここに葬られたが、昭和28年、子孫によって三人の墓は津和野の永明寺に移された。昭和56年、新たに供養塔と墓碑が建てられた。

常明寺楼門森家の供養費

常明寺の横の細い路地を抜けると、土山宿を貫く本通り、旧東海道に出た。

土山宿は西の白川橋から東の田村橋まで2.5kmの長さで、僅かにカーブする道の両脇は○○跡の石柱や、旅籠屋などの屋号が書かれた家並みが続いていて、宿場の雰囲気をよく遺している。

最初に目に映ったのが、白い橋の欄干で、その面に土山宿関連の絵や歌が描かれている。橋の名を大黒屋橋という。脇本陣の大黒屋が造ったといわれる。当時はこんなのではなかったと思われるが・・・

橋の東側に、代官や役人が住んだ陣屋の古い壊れかけた建物がある。反対側には木が植えられた広場があり、高札場跡、大黒屋跡の石柱が立つ。

白川橋(大黒屋橋)高札場跡
問屋場跡 大黒屋跡

交差点をそのまま直進すると、屋号が書かれた町屋風の家が連なっている。右側の新しい建物の前に「けごみ」と書かれた不思議な言葉が目に止まる。「一服」というような意味であるらしい。建物は公民館であるが、町往く人の休憩所もかねている。暖かい土山茶を馳走になり一息つく。細かい心配りがありがたい。

公民館前の石標公民館

少し行くと、土山家本陣の前に来る。内部を見学させてもらう。入った玄関の間に関札がぎっしり掲げられている。

ここには代々の当主が火災から死守したといわれる宿帳27冊が残り、大名の生活、食文化、しきたりなどが分かる貴重な資料となっているとのことである。

最後に泊まられたのが、明治元年東京へ下向の折の明治天皇で、土山宿で天皇になられて初めての誕生日を迎えられた。お祝いに350戸全戸に酒とスルメを下賜されたという。

土山家本陣玉座

その数メートル先に旧家を改造して建てられた東海道伝馬館がある。この場所に問屋場があったそうで、伝馬館の門を入ると、問屋場が復元され、当時の様子がリアルに再現されていた。中でも大名行列の様子を京人形で忠実に表してあるのは圧巻であった。

東海道伝馬館
大名行列の人員配置を模した人形

斜め向かいにうかいというお店があってミニギャラリーを兼ねた喫茶店を営んでおられる。我々はそこで昼食を予約していた。地場産の食材を使った料理は好評であった。

うかい屋

食事が終わって外へ出ると、本格的な雨になっていた。バスに乗って田村神社まで移動。

田村神社は坂上田村麻呂の鬼退治に因んだ「厄除けの神」として有名で毎年2月18日を中心に3日間、大祭が行われ数十万人の人々で賑わう。

鬱蒼とした杉木立の参道を進むと、珍しい銅の鳥居がたっている。旧東海道は参道を通ってこの鳥居の前を右に曲がって田村川橋(海道橋)に至る。

境内を流れる田村川に田村川橋が架かっている。これは安永4年(1775)に架けられた田村永代板橋を、平成17年に復元されたものである。往時の橋は幅4.1m、長さ37.3m、30cmの低い欄干がついた当時としては画期的なものであったらしい。安藤広重の「土山宿 春の雨」はこの橋を渡る大名行列の様子が描かれている。

それ以前は、60mほど下流に川の渡り場があったが、大雨が降る度に旅人が流され死人の出る始末で、宿場役人や村人も大変であった。そのため、幕府に許可を得て、今までの東海道の道筋を変えて、神社の境内を通る新しい橋を造った。

高札に興味深いことが書かれていた。「この橋を渡るとき、幕府の用で通行する人や、武家の家族が渡るときは無料である。また近村に住む百姓たちの中、川向こうに田畑があり、毎日橋を渡って生活する人も無料である。しかし、それ以外の住人、及び一般の旅人については、一人につき三文、荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬一頭につき三文渡り賃をとる。この規則は橋がある限り永遠に続く」とある。

田村神社境内を通る旧東海道
向こうに田村川橋橋を渡ったところににある高札

高札場の先でバスに乗り込む。 一号線猪鼻の信号を左に下り、旧東海道が東西に通る猪鼻集落を少し歩く。立場(たてば)があった中屋家の当主に話を聞く。土山宿と坂下宿の中間にある猪鼻は、目前に鈴鹿峠を控えて、休息、山越えの支度等で、商いする者も多く、街道を賑わしていたと言われる。

旅籠仲屋跡の石柱
猪鼻を通る旧東海道

ますます雨脚がひどくなってきた。横殴りの雨がバスの窓に流れ落ちる。

新名神高速道路が国道一号線の遙か上をひと跨ぎに走っている。その橋脚付近に一里塚跡がある。

鈴鹿トンネルの手前でバスはUターンして下り線に入りバスから降りる。雨は横降りであったが、万人講常夜灯まで、皆が坂道を登り切った。本来なら常夜灯と茶畑、国道から出てくる自動車が見渡せ、街道の今昔を実感できるはずであった。その先は山道になるとのことで、足に自信のない人が何人か引き返した

国道一号線沿いの道を登る
滋賀県と三重県の県境の道
ガードレールの下は鈴鹿トンネルの入口

鬱蒼と茂る杉木立の道は雨風が遮られて思った程難儀ではなかった。普段でも薄暗いが、雨雲に覆われいかにも山賊が出そうな雰囲気、田村麻呂の昔話が真実味を帯びてくる。道は下り坂でそれ程歩きにくい道ではなかった。箱根と比類される難所といえど、道幅もあり、石畳もあり、さすがに官道だなと思う。

片山神社を少し降りた所でバスが待っていた。坂下宿の鈴鹿馬子唄会館まで足を伸ばす。「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る ~」 ゆったりした調子の唄が雨に濡れた体に染み込む。

帰途、道の駅「あいの土山」で休憩していた時、ガイドさんが「皆さん、蛭に噛まれていないか調べて下さい」と。見るとガイドさんの首から血が流れ出ている。噛まれても気がつかないらしい。ズボンの裾や手指などから血が出ている人が数人いた。後で痒みや腫れが出るというものでなく大丈夫らしいが、予期せぬおまけ付きとなる。「ガイドさんの出血大サービスで存分に東海道、峠越えの旅が味わえた」との声があった。

帰り道、水口辺りから、雨が降った形跡がなく、雨は土山だけだった。ガイドさんには大変お世話になった。感謝!