平成25年6月5日・6日 参加者 24名
(1日目)近江八幡出発 = 甲南SA = 香芝IC= 高野山・光台院(昼食)…金剛峯寺拝観…奥の院=龍神温泉泊
(2日目)龍神温泉発 = 熊野本宮参拝…熊野古道の一部散歩 = 本宮古道歩きの里 ちかつゆ = 五条 柿の葉鮨夢宗庵 =香芝IC =甲南SA= 近江八幡帰着
朝8時近江八幡を出発し、12時半頃に高野山に到着。塔頭の光台院で昼食をいただく。
光台院は表通りより100mばかり奥まった所にあり、周りを杉の大木で囲まれひっそりとした所にある。
寺の開基は、白河天皇第四皇子、覚法親王といわれる。境内は本堂、多宝塔、経堂、鐘楼など重厚な建物が並んでいる。
昼食後、本堂内部や庭園を見せてもらう。本堂に安置されている本尊は快慶作の来迎阿弥陀三尊像(重文)で柔和なお顔に思わず手を合わせ頭が下がる。
この光台院の裏に近江八幡の開祖、豊臣秀次公の胴塚がある。光台院はこの胴塚のお守りをしていて下さる。
秀次公は青巌寺の柳の間で自刃し、首は京へ持ち帰えられ、胴は木食上人によって裏山に葬られたという。
高野山奥の院までの参道の両側に大小無数の墓が建ち並んでいるが、殊に秀吉や徳川家の墓は桁外れに大きい。それに比べ、秀次公の墓は1mばかりの宝篋印塔が建つのみで、家来衆の墓標も見えない。あまりの哀れさに涙を誘う。
秀次公の墓(胴塚)
金剛峯寺拝観
金剛峯寺の主殿は青巌寺の遺構そのままで、大玄関を入ると歴代天皇の位牌を祀る持仏堂があり、その左端の十二畳の部屋が「柳の間」即ち秀次公自刃の間である。
その解説には
「襖の絵は狩野探幽の筆で、四季の柳が描かれています。この座敷は秀次公自刃の間といいます。文禄4年7月(1595)関白秀次は雀部淡路守、山本主殿、山田三十郎、不破万作などを連れて10日夕刻高野山に着きました。秀次は木食応其上人に従って11日青巌寺で剃髪し道意禅門と名乗りました。14日池田伊代守などは秀次を誅伐するため登山し青巌寺を包囲しました。応其上人を始め一山の僧侶は秀次の命乞いをしましたが効なく、上人は囲いをとかせて秀次に自刃をすすめました。秀次の遺骸は当山の裏山に葬りました。」
ついでに秀次公切腹の前後の様子を記すと、
文禄4年7月8日 従者140名で高野山へ向かう。
10日 夕刻高野山に到着。
11日 雀部淡路守以下5名の小姓rを残し従者を京へ帰す。
剃髪し道意禅門と改名
14日 福島正則、池田伊予守を将とする3000の兵が青巌寺を包囲する。
15日 雀部淡路守以下の従者に愛用の短刀を与え別れを告げる。不破万作、山本主殿、山田三十郎の小姓たちは拝領の刀を受けて次室で「おん供、つかまつる!」という悲痛な声と共に割腹。秀次公その声を聞き終えるや切腹、介錯は雀部淡路守。次いで玄隆西堂が割腹し、最後に雀部淡路守が腹を切った。秀次公の首級は福島正則が伏見城の秀吉に首実検後、聚楽第の堀に投げ込まれたといわれる。
秀次公の和歌 三首
文禄3年3月(1594)吉野の花見、秀吉の前で詠む
治まれる 御代ぞと 呼ばふ松風に 民の草葉の なお靡くなり
文禄4年7月14日 高野山青巌寺の一室にて
おもいきや 雲井の 秋の空ならで 竹編む窓の 月をみんとは
文禄4年7月15日 辞世の句
月花を 心のままに 見つくしぬ なにか浮き世に 思い残さむ