千僧供古墳群 県指定史跡(旧ブログ)

供養塚古墳

 供養塚古墳は馬渕小学校の近くにあり、千僧供古墳群のうち最も西側に位置する。
昭和57年県営圃場整備に伴い発掘が行われた。その結果、周囲に幅8mの濠をめぐらし、全長50m、後円部直径37m、前方部幅22m、濠を含めると全長70mの全国でも3例目の帆立貝式古墳である。特に葬送儀礼などに使用したと思われる「造り出し」がある珍しい形式である。
また、発掘により多量の埴輪が出土した。特に従来県下では知見の少ない人物、馬、鶏、家型などの形象埴輪類が注目されている。 その中には県内では最大級の「円筒はにわ」(高さ83cm、直径32cm)がある。このことからこの古墳は5世紀後半に大和政権と強い係わりをもった有力豪族の墳墓と推測されている。
なお、この古墳は江戸時代、寛文2年(1662年)領主福富平右衛門が発掘し、石櫃を掘り出した所、その中に炭粉と共に白骨、古鏡、太刀、水晶玉などが出て来、石の内面には朱が塗られていたそうである。
昭和7年の道路工事の時に土取場とされ、採土の途中に石室が発見され、横矧板鋲留短甲、直刀などが出土し、これらは腐食が甚だしいので樹脂加工され千僧供町に保管されている。

住蓮坊古墳

古墳時代中期に属する。場所は六枚橋から南へ800mほど行くと右側の田圃の中にお椀型の墳墓が見える。昭和55年圃場整備事業に先立って発掘調査が行われた結果、直径53mの県下でも屈指の大型円墳と判明。同心円でなく、変則形状の周濠が巡らされていたが、現在は耕地化されなくなった。周濠跡からは県下最古式の須恵器が出土した。
現在古墳の上に2基の墓があるが、これは鎌倉時代、法然上人の弟子、住蓮坊と安楽坊が宮中で専修念仏を催して、後鳥羽上皇の怒りに触れ死罪となり、住蓮坊は佐々木義実に曳かれて馬渕縄手で斬首されこの地に埋葬された。江戸時代になって地元の人達が六条河原で処刑された安楽坊の霊も一緒に祀り、古墳の上に僧塚を建て追善供養したのが現在の墓である。

トギス古墳

 馬見岡神社鳥居前の道を西へ約10mほど行った所にある。丘陵部が削られ、ほぼ平坦である。石室の石材も殆ど残っていない。
円墳で周りの田圃に削られ大きさははっきりしない。古墳時代後期の首長墓とされる。

岩塚古墳

 岩塚古墳は千僧供古墳群のうち最も南に位置し、墳丘径約27.5mの円墳であることが確認されているが、明確な周濠は認められていない。横穴式石室を内部主体に持ち、現在は墳丘土が流失し、石室の石材が露出している。
石室は玄室幅約2m、現存石室長さ約11mであり、ほぼ南面に開口している。
古墳時代後期(6世紀代)に属し、北方の住蓮坊古墳、北西方の供養塚古墳に引き続いて築造されたものと見られ、在地の首長墓の系譜を引くものとして貴重な古墳である。

妙感寺古墳

 妙感寺古墳は岩倉の三差路に日蓮宗の寺・妙感寺があるが、その裏の諏訪神社の境内にある。出土品は盗掘されて築造年代は不明だが、千僧供古墳群と同様、5~6世紀に岩倉山西麓一帯を支配した首長の墓と考えられる。
この岩倉山から雪野山にかけて山腹や山麓には多数の古墳群が存在する。古代はこの馬渕地区が文化・経済の中心地だったことが伺える。